
月末になると机の上に山積みになる請求書、工事完了報告書、材料費の領収書…。それらを一つ一つ確認しながら会計システムに入力していく作業は、まさに果てしない戦いのようです。「また金額が合わない」「この領収書の日付が読めない」「現場からの報告書がまだ届いていない」そんな声が経理部から聞こえてくる光景は、多くの建設会社で日常的に繰り返されています。2022年1月に施行された改正電子帳簿保存法により、デジタル化への対応が義務付けられましたが、「具体的に何をどう変えればいいのか分からない」という経理担当者の声も少なくありません。
成功事例:中堅建設会社A社の劇的な変化
従業員120名の総合建設会社A社では、2023年4月から電子帳簿保存法に完全対応した経理システムを導入しました。導入前の同社経理部は、月末の締め作業に平均45時間を費やし、経理担当者3名が深夜まで残業する状況が続いていました。
導入前の課題と苦労
A社の経理部長である田中氏(仮名)は当時の状況をこう振り返ります。「現場から送られてくる請求書や領収書の中には、雨に濡れて文字が滲んでいるものや、コピーを重ねて不鮮明になったものが多く、金額の確認だけで1日かかることもありました。特に下請け業者からの請求書は手書きのものが多く、税込み価格と税抜き価格の記載が曖昧で、毎回電話で確認する必要がありました」
さらに深刻だったのは、複数の現場で同時進行する工事の進捗と実際の支払いとの整合性を取ることでした。現場責任者からの工事完了報告書と、実際に届く材料費の請求書のタイミングがずれることで、どの工事にどの費用が対応するのかを特定するのに膨大な時間を要していました。
システム導入のプロセス
A社では段階的なアプローチを採用しました。まず2022年10月から3ヶ月間のテスト期間を設け、1つの現場のみで電子化を試験導入しました。この期間中に発見された課題は以下の通りです。
- 現場作業員のスマートフォン操作に慣れていない問題
- 電波状況の悪い現場でのデータ送信エラー
- 雨天時の機器操作の困難さ
- 既存の会計システムとの連携不具合
これらの課題を解決するため、A社では以下の対策を実施しました。操作研修を月2回実施し、簡単な操作マニュアルを現場に配布。電波状況の改善が困難な現場では、データを一時保存できる機能を活用。防水仕様のタブレット端末を各現場に配備。システム会社と連携し、既存システムとの完全同期を実現しました。
導入後の劇的な効果
2023年4月の本格導入から6ヶ月後、A社では驚くべき効果を実感しています。月末締め作業時間が45時間から12時間に短縮され、73%の時間削減を実現しました。経理担当者の残業時間が月平均30時間から8時間に減少し、人件費も大幅に削減されました。
田中部長は成果をこう語ります。「最も大きな変化は、リアルタイムで各現場の支出状況が把握できるようになったことです。以前は月末にならないと正確な原価が分からなかったのですが、今では日次で工事ごとの収支状況を確認できます。これにより、予算オーバーのリスクを早期に発見し、適切な対策を講じることができるようになりました」
A社では電子帳簿保存法対応により、年間約480万円のコスト削減効果を実現。投資回収期間は わずか8ヶ月でした。
失敗事例:小規模建設会社B社の教訓
一方で、電子帳簿保存法への対応が思うように進まなかった事例もあります。従業員25名の住宅建築専門会社B社では、2022年12月に急遽システム導入を決定しましたが、様々な問題に直面しました。
準備不足が招いた混乱
B社の経理担当者である佐藤氏(仮名)は、導入時の混乱をこう説明します。「法改正の期限が迫っていたため、十分な検討時間がないまま、価格の安いシステムを選んでしまいました。導入後に気づいたのですが、建設業特有の工事進行基準による売上計上や、複数年にわたる工事の原価管理に対応していませんでした」
さらに深刻だったのは、現場スタッフへの教育が不十分だったことです。新しいシステムの操作方法を理解しているのは経理担当者のみで、現場からは相変わらず紙の書類が送られてくる状況が続きました。結果として、紙とデジタルの二重管理となり、かえって作業負担が増加してしまいました。
システム選定の落とし穴
B社が選択したシステムには、建設業界特有の要件に対応していない部分が多数ありました。具体的には以下のような問題が発生しました。
- 工事別の原価管理機能が不十分
- 進行基準による売上計上に対応していない
- 下請け業者との連携機能がない
- 建設業会計基準に準拠していない
- 税務調査に必要な検索機能が不備
これらの問題により、B社では導入から3ヶ月後にシステムの入れ替えを余儀なくされました。初期投資の約60%が無駄になり、スタッフの混乱も長期化しました。
失敗から学んだ教訓
B社の失敗から得られる教訓は明確です。佐藤氏は振り返ります。「最大の反省点は、建設業界の業務特性を十分に理解していないシステムを選んでしまったことです。価格だけで判断せず、業界特化型のシステムを選ぶべきでした。また、現場スタッフの巻き込みが不十分だったことも大きな要因です」
現在B社では、建設業界専門のシステム会社と連携し、段階的な導入を進めています。まず経理部門のみでの運用を開始し、安定稼働を確認してから現場への展開を行う計画です。
成功事例:大手ゼネコンC社のベストプラクティス
従業員2,500名の大手ゼネコンC社では、2021年から電子帳簿保存法への対応準備を開始し、業界をリードする取り組みを実施しています。
全社一体となった取り組み
C社の特徴は、経理部門だけでなく、現場、営業、購買部門が一体となってデジタル化を推進したことです。プロジェクト開始時に「デジタル推進委員会」を設置し、各部門の代表者が参加する体制を構築しました。
経理部門責任者の山田氏(仮名)は、成功の要因をこう分析します。「単に法律に対応するという受動的な姿勢ではなく、これを機会に業務プロセス全体を見直し、競争力強化につなげるという積極的な姿勢で取り組みました。特に重視したのは、協力会社を含めたサプライチェーン全体でのデジタル化推進です」
協力会社との連携システム
C社では、主要な協力会社150社とのデジタル連携システムを構築しました。このシステムにより、請求書の発行から承認、支払いまでの全プロセスが電子化され、処理時間の大幅短縮を実現しています。
具体的な効果は以下の通りです。請求書処理時間が従来の平均5日から1日に短縮され、支払いサイクルも30日から20日に短縮されました。これにより協力会社のキャッシュフロー改善にも貢献し、より良好な取引関係を構築できています。
協力会社の一つである鉄筋工事業者の担当者は、「請求書を郵送して、承認待ちをする期間がなくなったことで、月末の資金繰りが格段に楽になりました。システム操作も思っていたより簡単で、今では手放せません」と評価しています。
データ活用による経営改善
C社では電子化により蓄積されたデータを積極的に経営判断に活用しています。工事別の原価分析がリアルタイムで可能になり、収益性の低い工事や原価超過のリスクを早期に発見できるようになりました。
山田氏は効果をこう説明します。「従来は工事完了後にしか正確な収支が分からなかったのですが、今では工事進行中に週次で収支状況を把握できます。これにより、問題のある工事には早期に対策を講じることができ、全体の収益性が向上しています」
実際にC社では、電子帳簿保存法対応をきっかけとしたデジタル化により、全社の営業利益率が前年比1.2ポイント向上する成果を上げています。
失敗事例:個人事業主D氏の苦悩
建設業界には多くの個人事業主や小規模事業者も存在します。一人親方として内装工事を手がけるD氏の事例は、小規模事業者特有の課題を浮き彫りにしています。
個人事業主特有の制約
D氏は2022年12月、電子帳簿保存法への対応のため、クラウド会計システムの導入を決定しました。しかし、導入後に様々な問題に直面することになります。
「システム自体は使いやすいのですが、お客様から手渡される領収書や請求書をスマートフォンで撮影してアップロードする作業が想像以上に大変でした。現場での作業中に書類を受け取ることが多く、手が汚れた状態でスマートフォンを操作するのは困難でした」とD氏は振り返ります。
さらに、取引先の多くが高齢の個人事業主や小規模業者であり、電子化への対応が進んでいないことも大きな障害となりました。結果として、自分だけが電子化しても、取引先からは相変わらず紙の書類が送られてくるため、業務効率の改善効果は限定的でした。
コスト対効果の課題
D氏の事業規模では、月間の取引件数が20~30件程度と少なく、高機能なシステムを導入してもコスト対効果が見合わない状況でした。「年間のシステム利用料が12万円かかるのですが、それに見合う時間短縮効果を実感できませんでした。むしろシステムの操作を覚える時間の方が多くかかってしまいました」
現在D氏は、最低限の法的要件を満たす簡易的なシステムに変更し、段階的にデジタル化を進めています。同業者との情報交換を通じて、個人事業主に適したソリューションを模索中です。
建設業界における電子帳簿保存法対応のポイント
これらの事例から、建設業界における電子帳簿保存法への対応では、いくつかの重要なポイントが浮かび上がります。
業界特性を理解したシステム選択
建設業界には他の業界にはない特殊性があります。工事進行基準による売上計上、複数年にわたる長期工事の管理、下請け構造の複雑性など、これらの特性に対応したシステムを選択することが成功の鍵となります。
建設業界特化型システムを選択した企業の満足度は92%に達する一方、汎用システムを選択した企業の満足度は64%にとどまっています。
段階的導入の重要性
成功した企業に共通するのは、段階的な導入アプローチを採用していることです。いきなり全社で一斉導入するのではなく、小規模なテストから始めて課題を洗い出し、改善してから本格展開することで、失敗リスクを最小化できます。
現場スタッフの巻き込み
建設業界では、実際に書類を作成・提出するのは現場スタッフです。経理部門だけでシステムを導入しても、現場の協力が得られなければ効果は期待できません。現場スタッフへの十分な教育と、使いやすいツールの提供が不可欠です。
今後の展望と準備すべきこと
電子帳簿保存法への対応は、単なる法的義務の履行にとどまらず、建設業界全体のデジタル化を加速させる契機となっています。
インボイス制度との連携
2023年10月から開始されたインボイス制度と電子帳簿保存法の組み合わせにより、より精密な税務管理が求められています。建設業界では下請け構造が複雑であるため、適格請求書の管理は特に重要な課題となっています。
DXへの発展可能性
電子帳簿保存法対応を出発点として、AIを活用した自動仕訳、IoTセンサーによる材料管理、クラウドベースの工程管理など、より高度なデジタル化への発展が期待されています。
今回紹介した事例からも分かるように、電子帳簿保存法への対応は、準備と計画次第で大きく結果が変わります。自社の規模や特性に応じた適切なアプローチを選択し、段階的に取り組むことで、法的義務の履行と業務効率化の両立が実現できるでしょう。
※本記事は建設業界の事例や一般的傾向をもとに構成しています。
効果や課題は企業の状況により異なるため、導入検討時は専門家への相談や自社の実態確認を推奨します。